「通りすぎてから」

「現代美術論」と題して、書いてくれと言われたけど、それができるくらいなら、美術評論家のように、切れのいい評論を書く。確かに、既成の美術や画壇に違和感があって、現代美術と呼ばれる方へ走ってしまったけれども、今ではそれもどうでもいいことだ。無意味な色分けなど、できるだけしない方がいいに決まっている。いいものは時代を越えていいのだから。それでも「現代美術」というものに
触れるとするなら、「現代芸術入門」(中原佑介)が、ひとつの見方としてわかりやすい。もっと深く知ろうとすれば、「現代美術事典」(美術出版社)をパラパラと、つまみ食いして、それを扱うギャラリー巡りをしながら、毎月「美術手帖」にでも目を通していれば、現代美術の知的スノッブくらいにはすぐにでもなれる。もともと「現代美術」だけをきりとること自体ナンセンスだ。今まで営々と積み重ねられてきた美術があってこその「現代美術」だからだ。ぼくはたまたまセザンヌから入っていったというだけで、人それぞれだ。
 依頼を引さ受けたのは制作していく上で何かモヤモヤしているものをはっきりさせたいと以前から思っていたので、書きながらそれをやろうと考えたからだ。それは作品のテーマであり、今の制作をどうするかということなる。申し訳ないが、このあたりから私事になる。なあんだと思われる向きはどうかとばしてしまってほしい。話を戻して強引に書く。何年か前、現代美術をやっているだと突っ張っていた頃(気持ちだけそんな頃があった)、絵画の構造というか、仕組みみたいなものを、絵画の持っている形式は変えないで、その構造を変えていきたいと考えていた。堅苦しい言い方になってしまったが、少し柔らかく言うと、確かに平面に描かれているし、壁にも掛けられてはいる。形は、紛れもなく絵画に見える。にもかかわらず、これは今までのどの絵にも当てはまらないみたいだ。そんな
絵画を描きたいというか、つくりだしたいと・・・、よけい解りにくくなった。つまり、今までの絵画の枠ではくくれない絵画をつくりだしたかったのだ。先人が果たしてきたみたいに。それでテーマになり得ると思えたし、それがそのまま、作品のコンセプトだと思い込んできた。だけど、最近になって、それは少し違うと考えるようになった。自分の中に別の声がするのだ。つまり、ぼくの「想い」と呼んでいいと思うが、それはいったいどこへ置き忘れてきたのか、と。

 現代美術のアーティスト達の作品はとても素敬で、ぼくのような半端なものははじき飛ばされそうな思いする。
 コンセプチュアルアートとよばれる作品があって、その中で特にすばらしいものがある。
五つの言葉が五つの色のネオン管でできていて、暗い画廊の中で光を放つ。言葉とそれが示す実体が、見事に一致していて、しかも美しく輝く、J・コススの作品だ。

 もう一人、河原温という作家がニューヨークにいる。
「Date Painting」といって、毎日キャンバスにその日の日付をていねいに描き込む。

(こんな感じで)

毎日一枚描きあがる。たぶん、彼は死ぬまで描き続けるはずだ。作品の裏には、その日の新聞が封入されている。それをみるうちに、ぼく達の日常や歴史的出来事、ひとりひとりの生や死、日々の喜怒哀楽、ありとあらゆる営みは、彼が日付をPaintすることによって、あっさりと片付けられてしまうのに気づく。彼と交流のあった宮内勝典の小説「グリニッジの光を離れて」の中に、河原は実名で登場する。河原の作品の意味が小説の重要な要素となり、テーマの中に組み込まれていて成功している。
 そしてヨゼフ・ボイス、最近死んでしまったドイツのアーティストだ。「社会彫刻」といっても、解りにくいかもしれないけれど、要するに彼は大まじめで社会を変えようとして作品をつくった。政治や経済、宗教や思想、生活や環境、彼の関わるすべてが作品化されていく。まさに「社会彫刻」なのだ。生きていればドイツのある部分は変わったはずだ。作品をつくる思想家といっていい。あげればきりがないけど、生きている人間の人型をとって、スナップショットのように日常をきりとり、彫刻にしたてあげるジョージ・シーガル。スナップ写真にインパクトが与えられた感じだ。もともと平面である星条旗や弓の標的を、さらに平面である絵画に仕立て直すジャスパー・ジョーンズ。絵画をアクションの場に変えてしまったジャクソン・ポロック。農夫が土を耕すように、漂流物の木片に太陽の光で焦げ跡を刻み続けるロジャー・アックリング。つくることはせず、ものとものとを出逢わせて、その関係において、その場の空気を一変させた「もの派」と呼ばれる李禹煥や、関根伸夫の仕事。その理念やマニフェストは、李の著作「出会いを求めて」に詳しい。圧倒的なスケールで、巨大なプロジェクトを企て、ビル、岸壁、橋、島を次々に布とロープで梱包してしまおうとしたクリスト。数々の困難な問題を、何年もかけて解決し、そして彼は本当にそのプロジェクトをやり遂げてしまった。膨大な時間とエネルギーで実現した巨大な梱包は、わずか教日でその姿を消してしまう。そのいさぎよさ。そして絵画の在り方を今もずっと問い続ける中西夏之の仕事は、ぎりぎりで平面が刻まれ、鮮やかに絵画が成り立っている。
 
 どれもこれも、めくるめく作品群だ。それに間違いはない。間違いはないが、では、彼らの「想い」は一体どこに消えてしまったのだろう。妙な見方になってしまうけれど、恐らく現代美術は注意深くそれらを消し去ったのではないかと思う。というよりはむしろ、
個々の想いというディティールがつきつめられて普遍化したのだ。「想い」などという曖昧なものより、変化していく世界、それを捉えようとする思考のプロセス、行動する身体とその視覚や感性、あるいは空間や時間の拡がり、拡張し変化し続ける現代を研ぎすました形にして、切りとって見せることの方が、現代の美術の在り方として、よりリアリティがあるはずだ。その断面は一面であるにせよ、確かに鋭い切り口だ。そして、若い世代のおびただしい作品群の出現。まさしく、予兆のようだ。彼らの時代をつかみ取る若い感性と新しい表現。ぼくにはそれらをとらえ切る感性や表現(実現)しきる圧倒的なパワーを持ち得ない。もはや、芒然と見送る側に立ちつくしているからだ。けれども、自分の忘れ物を探そうとする悪あがきが、まったく無意味だとは誰にもいえない。仮に、その意思が持続することがあり得るならだが。

 「想い」といえば、昔、京都にいた画学生を思い出した。ある日彼はひとりの教授に、愚直ともいえるこんな質問をしたことがある。
「先生、どうしたらいい絵が描けるのですか。」教授は戦時下でも自分の説を曲げず制作し、投獄された人物だったが、問いの答えは意外だった。「身も心も溶けるような恋愛をすることだよ、若いうちだけだから。」画学生は愚かな質問を恥じた。しかし、答えの方も結果論だ。ある目的を用意しておいて、そのために恋をしようとするやつがいたら、そいつはバカだ。それは、ある日突然やってくる出会い頭なのだ。どんなにすばやく、冷静で聡明であろうとも、避けることは不可能だ。ある日突然、あっというまにそのあたりが輝きだしていつもはじまる。そうなったらもう手遅れで、あとは身も心もフラフラになった自分を持て余す病気にかかる。でもそれは世界で最もきれいな病気だそうだ。ぼくはそんな病気の彼のところへお見舞いに行ったことがある。ところが、そんな中でも彼は自分の絵について模索していた、という事実に驚いた。要するに、ぼくのような半端な不良学生と違って、彼はかなり真摯な態度の画学生だったと思う。誰にでも通り過ぎていくはしかのような想いを、本気で形象化しようとしていたのだから。ぼくはあきれたけれども、半分羨ましいと思った。確かあの時、シャガールとクリムトの絵について話をしたと思う。どちらもその思いに近いようだが、「シャガールは幸福感そのものだし、クリムトには死の影が漂う。」という彼の言葉はいちいち納得できた。いっそのことモデルになってもらって肖像画でも描けと茶かしたら、それができるくらいなら、その手を握っていると、真顔できりかえしてきた。妙に納得し、見舞いの酒を空にして下宿に帰った。音の話だ。
 稲垣足穂は
「詩は歴史性というものに対して、垂直に立っている。」と言ったそうだ。中島らもがそれを「恋は日常性というものに対して、垂直に立っている。」と言い替えた。ぼくがあの画学生を羨ましいと思ったのは、まさにその一瞬に、ぼくらがやりきれなくやり過ごしている日常という線の遥か天空の一点へ、彼が舞い上がれたことと、それは永遠をはらんでいる一瞬だった、ということだ。ラブソングの幻の巨匠、下田逸郎が「限りなく流れる時をつきぬけ」と歌っていたその瞬間、そこに生まれるものが、詩であれ、歌であれ、また絵であっても、一向に不思議なことではない。形は何であれ、いつも問われるのは、どれだけ的を射ているかであり、その質そのものだろう。

 夢中で絵を描いている子供を見ていると、描かずにはいられないから描いているという、当たり前のことが実によくわかる。文学や音楽やまたスポーツをする人達もそうせずにはいられないから、書き、歌い、身体を弾ませているにちがいない。リアリティはそういうところから実現する。
                                        
 ところでぼくの想いはまだぼやけてしまったままだ。それは描かずにはいられない絵の中に、ささやかに実現したいと思う。プラン通りに運べば、それは誰かを写し出す仕組みを持った絵画として仕上がるはずだ。そこは出入り自由だが、通り過ぎていく一瞬の空間としてたちあらわれてくる。
 
 これが、テーマの本質だ。
 ラブレターに返事は要らない。
 いつかそっと見にきてほしい。

「Pssing Through」

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